本会について

長野高等学校同窓会東京支部の名称です。主に首都圏在住の同窓生が集まって講演会、懇親会を開催しています。同窓生でしたらお住まいの地区に関係なくどなたでも参加していただけます。年会費等はなく、集会参加費の一部を充てて運用しております。お気軽にご参加ください。

この会の歴史は古く、詳しくはこちらのPDFをご欄下さい。PDFの内容を下記します。改行などの整形はしておりません。

 

長野高校、長野北高、長野中学関東地区同窓会「東京長高金鵄会」について━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━中村健(高校22回、1970年卒)(はじめに)この度現在「東京長高金鵄会」の名称となっている長野高校の関東地区同窓会の歴史をひも解くこととなった。資料調べにあたっては、母校の同窓会にもお世話になった。桃林同窓会事務局長(高22回)には、この場を借りて御礼を申し上げたい。資料を纏めるにあたって改めて感じたことがある。それは、この会は多くの先輩が骨身を削って育ててきた伝統ある会であることである。国会、行政、企業、マスコミ、法曹界(順不同)など、それぞれの立場で日本の発展に尽くし、中には歴史に名前を刻んでいるような先輩諸氏が、自己犠牲を厭わず会を盛り立てて来ている。会の運営に時間を提供する者、金銭を出す者、場所を提供する者、また会に積極的に参加をする者などで、これらの多くの努力が今日の「東京長高金鵄会」に続いている。今後もこの伝統を守り、その輪を更に大きくするよう皆様と共に努力をして行きたい。(創生期)長野高校の前身である長野中学(長野県立長野中学校)は1999年(明治32年)にその歩みを始めているが、その歴史は更に明治17年まで遡れるとも言われている。さて、東京地区でのこの同窓会がどのようにして成り立ったかは、1980年(昭和55年)に発刊された「長野高校80年史」に記録がある。それによると、1919年(大正8年)頃には神田淡路町の日露協会会長大井包高(長野中学3回卒業生;中3回と称す。1903年、明治36年卒。なお、敬称は略させて頂く)の下に同窓生30名ほどが集っていたとある。このころは会長も置いていなかったようだが、その頃が東京長中会の初期時代と言える。この集まりは1923年(大正12年)の関東大震災もあり、四散していたが、その後尾崎庄兵衛(中1回)の下に復活、1928年(昭和3年)に尾崎が亡くなるまで続いた。それからはまたしばらく中断をしているが、1939年(昭和14年)に青木一男(中9回)が大蔵大臣となり、集まりがまた復活している。これ以降は戦争もあり混乱をしていたようであるが、このあたりの状況は小松東三郎(中22回)が80年史に詳しく寄稿している。(戦後の歴史)戦後は1950年(昭和25年)に東京長中会を組織化すべく、名簿の作成作業に入り、翌1951年(昭和26年)1月27日に創立準備会を行っている。このメンバーは顧問に小坂順造(中3回)、会長は小林次郎(中10回)、幹事長は塩原時三郎(中14回)とある。設立総会は5月23日に100名余りが参加し、参議院議員会館で盛大に行われている。(長野北高校新聞に詳細な記録があったので添付する)その後1955年(昭和30年)には会長は青木一男(中9)に代わり、1975年(昭和50年)には篠原周一(中24回)が会長に就任し、1979年(昭和54年)には丸田芳郎(中22回)が会長になっている。一方、1963年(昭和38年)には、この長中会に新機軸を吹き込む目的で東京金鵄クラブなる会も設立されている。幹事長はのちに長高会会長ともなる丸田芳郎(中32回)である。この会はしばらくして同窓会に組み込まれている。(信越化学に関わって)現時点での会長である中村健(高22回)は、生まれは1951年(昭和26年)であるが、東京の同窓会が正に設立をされた年であり、ここからでも64年を経ている。なお、同好の志が神田に集った1919年から計算すると100年近くの歴史がある会である。私は今をさかのぼること40年前の1975年に社会人になっているが、入社した信越化学工業は同窓の先輩諸氏も多くいる会社で、その後はほぼ切れ目なくこの会には参加をして来ている。信越化学はご存じのように長野県及び長野高校(中学)ともつながりが深いゆえ、筆者のわがままで若干のことを語っておきたい。 当社は1926年に須坂の生糸製造業の越寿三郎が生糸業の傍ら、発電業に乗り出し、その余剰電力を使う電炉を直江津に設置したのが始まりである。直後に同じ発電業仲間であった小坂順造(中3回)に経営を任せており、小坂順造が信越化学の実質の創業者とも言える。私の入社当時は信越化学は小坂順造の長男、小坂善太郎衆議院議員に加え、三男の小坂徳三郎も信越化学社長から衆議院議員に転じており、会社に取っても県人会、同窓会などとは幅広く付き合うことが求めれれたものと思われる。また、また昭和40年代後半から社長を務めた小林周蔵(中17回)、その後の小田切新太郎社長(中27回)も同窓で、更に昭和50年代から60年代に社長を務めた小坂雄太郎(中38回)は東京長高会会長を長く務めている。また、現在の会長の金川千尋の父、金川廣吉(中6回)も同窓である。従って、県人会の運営もしながら東京長高会の事務局(幹事長)を長く務めた藤原正道(中43回)も信越化学籍であり、会の隆盛のために日々尽力(自らに集客のノルマを課していた)をしていた。(役員の歴史)総会は年末に行われ1980年(昭和55年)丸田芳郎会長(中32回)の下で200名を超える参加者があった。幹事長には杉田実(中37回)が就いている。なお、このころ(昭和50年代)は同窓会の会場は半蔵門にあった東條会館だった。支配人をしていた町田孝男(中30回)が大分便宜を図ってくれたようである。1983年(昭和58年)末も丸田会長のもとで、副会長には小坂雄太郎(中38回)、幹事長は藤原正道(中43回)で副幹事長にはそののちの幹事長となる楠真幸(中49回)、才口千晴(高9回)も副幹事長に就任している。この年には300人を超える同窓生が集っている。1987年(昭和62年)には小坂雄太郎(中38回)が会長に就任している。この総会には何と330名の参加があった。小坂会長は1990年(平成2年)に逝去し、その年の末に田中富弥(中43回)が会長に就任している。この年も参加者は300人を超えていた。 翌年1991年(平成3年)にはその後長く幹事長を務める楠真幸(中49回)がその職に就いている。この年から総会の場所も虎の門パストラルに移っている。1994年(平成6年)には田中会長の下に、その後会長となる増沢高雄(高1回)が副会長に就任している。1995年(平成7年)に田中会長が逝去し、その年末の総会で増沢高雄(高1回)が会長に就任し、副会長には伊藤右橘(高3回)が副会長に就任している。この年の総会は230名だった。1996年(平成8年)の総会では楠真幸(中49回)幹事長が退任し、のちに最高裁判事となった才口千晴(高9回)が幹事長に就任。250名の参加を得た。1999年(平成11年)には会長に伊藤右橘(高3回)が選任され、幹事長だった才口千晴(高9回)は副会長になり、新たな幹事長には高野真弓(高15回)が就任している。180名の参加となる。2001年(平成13年)には会場を学士会館に移し、飯田邦彦(高9回)が会長に就任している。参加150名。2005年(平成16年)には飯田会長が退任し、荒井寿光(高14回)が会長に就任し、幹事長も高野から矢島良彰(高19)になった。のちの会長の田中信義(高16回)も副会長に就任している。参加は200名であったが、毎年引継ぎを行っていた学年幹事団の引継ぎが出来なかった年でもある。その後も総会参加者は200名を切る状況が続いている。2009年(平成21年)には田中信義(高16回)が会長に就任し、幹事長には若手の近藤英一(高33回)が就任している。場所は銀座の東武ホテル(コートヤードマリオット)に移っている。田中会長はなるべく多く集まりたいとの意向を示し、講演会は春秋で二回、年末の総会にも講演会があり、年三回の講演会を行うこととなった。各会の参加者は100名前後となっている。その後、2013年(平成25年)には田中会長が体調を理由に降板し、副会長だった中村健(高22回)が会長に就いている。(田中会長は翌2014年に逝去)この会の会長は上記のごとく、会社のトップが多く、丸田会長は花王石鹸、小坂会長は信越化学、田中会長は第一法規、増田会長は長期信用銀行、伊藤会長は東邦亜鉛、飯田会長は片倉チッカリン、荒井会長は特許庁長官、田中会長はキャノン専務などそうそうたるメンバーが会を引っ張って来ているここを多くの幹事団が支え、社会における地位を離れてボランティアで大いに力を尽くすのか会の伝統となっている。(運営の状況)会は現在は年に2回から3回で、幅広い分野で活躍しているその道の専門家OBによる講演会、また時にはプロとなっている音楽家に演奏などしてもらい楽しんでいる。(ここ10年ほどの講演者を別表に記す)年末12月には総会で、幹事学年の引き継ぎを行うのが習わしだが、ここ数年は若手年次の人間が集まらず、実際にはなかなか「金鵄魂旗」が次年度に渡らない状況となっている。会の恒例は何と言ってもお決まりの「信濃の国」の合唱と校歌「山また山」の斉唱である。この歌を大きな声で歌っていると故郷の山々やその合間を流れる川、また自らの若き日の姿が目に浮かび、日頃のストレスも解消される。(終わりに)このように伝統ある会だが、このところなかなか人が参じてくれないのが悩みとなっている。この会とは別にOB同志の会もいくつかあるようで、それらにも声を掛けている。また、ご存じのように長野高校は基本的に男子校(女子は一割以下)だった訳だが、昨今は男女の比率がほぼ拮抗して来ており、その方がたにもどのように参加をしてもらうかも工夫が求めれれている。現在会に参加をしてくれる最高齢OBは80歳台半ばを超えて来ている。そのような皆様は熱心に参加をしてくれており、この会の発展も願っている。何としてもこの会を更に発展させて行くべく、私も多少の時間的余裕も出来たので、尽力をして行く予定である。関係各位のご協力を改めてお願いして終わりとしたい。 年次のデータ:・長野中学:1901年(明治34年)第1回卒業生~1948年(昭和23年)48回生・長野高校:1949年(昭和24年)第1回生卒業~今日に至るなお、1949年から1957年(昭和32年)までは「長野北高校」である。また、1940年(昭和15年)から1949年(昭和24年)にあった市立長野高校を統合している。